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世界保健機関の「西暦二〇〇〇年までに全人類に健康を」という標語や「健康で文化的な最低限度の生活」という日本国憲法の言葉は理想にはちがいありませんが、あまり気楽に謳い上げない方がいいのではないでしょうか。
もちろん、健康をおびやかす自然的・社会的条件をできるだけ改善し、身体を鍛錬し病気と障害とを予防する努力を怠ってはなりませんが、精神と身体両方の健康を完全に維持するのはたやすいことではないのです。
むしろ正常と異常の二つの領域にたえず出入りしながら、どうすればできるだけ生き甲斐のある生活を送り、分相応に社会に貢献することができるかを考え、努力するのが人生ではないでしょうか。
はスカルは『プロヴァンシャル書簡』の「病気の善用を神に求める祈り」という文章の中で「病気はキリスト者の本来のあるべき姿であるから、憐れんでもらいたくない」と書いていますが、われわれ平凡な人間は病気の「善用」を求める前にできるだけ病気にならないこと、ことに生活や仕事に差し支えるような病気にならないことを祈りたいし、不幸にして病気になった場合はなるべく早く治って家庭生活、社会生活に復帰することを切望するのが人情でしょう。
国民生活に関する世論調査(総理府、一九八二年)によると、国民の悩み、不安のうち最大のものは自分自身または家族の健康(ともに三四%)ですし、居住地に関する世論調査(一九八〇年)では、都市の良さとして、医療機関が多く病気の時に安心できること(四一%)が乗物や買物の便利さ(五〇%)についで第二位を占めているのです。
実際、病気ほど人を不安に陥れるものはありませんから、信頼のできる、いい医療機関にかかりたいという願望がきわめて強いのは当然でしょう。
要するに、人間は病気と無関係には生きられない、その意味ではまことに憐れな存在ですが、それだけに何とかして病気から一日も早く抜け出したいという強い願望をもっているわけで、そのために医者や医療機関を何よりも頼りにしているのです。
それでは、その医者や医療機関はどれほど頼り甲斐があるものなのでしょうか。
病気になった時、頼りになるのは医者です。
ふだんは医者嫌いで通っている人でも、病気になり自分の生命に不安を感じる段階に立ち至ると医者の門をくぐらざるをえません。
Y・Tさんも、ブツブツいいながら病院に入られ、手術を受けられたのです。
なぜ、医者がそれほど頼りにされるのでしょうか。
はタソンは「医者の三つの権威」ということをいいました。
知的権威をふりかざしている医者と、道徳的権威で患者と繋がっている医者と、カリスマ的つまり教祖的な権威のおかげで成功している医者、というように医者を三つの類型に分類できるということでもありますが、すべての医者はこの三種類の権威を巧みに、あるいはいささかぎごちなく使いわけているということでもありましょう。
三つの権威の適正配医学はもともと健康と病気に関するできるだけ多くの事実を明らかにし、それらを支配する法則を見出し、それを踏まえて健康を保ち病気をコントロルすることを目的とする科学であり、技術でありました。
しかし古い時代には偶然的な印象ないし経験の集積と恣意的な直観ないし思いつきとに寄りかかるしかありませんでした。
ですから、長い人類の歴史の過程を通じて、多くの積み重ねがあり、時には驚くべき発見もなかったわけではありませんが、科学にとって最も大切な再現性の保証はきわめて乏しかったといわなくてはなりません。
もちろん、あまりに荒唐無稽な学説や技術は「時の試練」に耐えませんから馬脚をあらわして消え去りますが、しかしきわめて素朴な方法論同士の競い合いですから、このような自然淘汰は常にうまく成功するという保証は乏しく、淘汰が完成するまでに人類の払った犠牲ははかり知れないものがありました。
ギリシャの昔から、体液の乱れで病気が起こるという仮説が長く支配し、血管から血蛭を使う潟血が盛んに行われました。
中世のヨーロッパの病院は主として僧院に附属していましたから、基本的には道徳的権威によって支えられていたといっていいのですが、今日の外科医の祖先である理髪師が外から技術提供者として呼びこまれ、盛んに潟血を行いました。
今日理髪店の店頭でクルクル廻っている赤と青の看板は、赤は動脈、青は静脈をあらわし、要するに昔の潟血師の名残です。
さらに蛭も盛んに用いられ、フランスでは十九世紀になっても、血を吸わせて病気を治すために今日ではこのような治療の合理性を信ずる者は、医者の中にはほとんど人もいないでしょう。
このような素朴経験主義と直観とにほとんど全面的によりかかっていた伝統医学が自然科学に次第に接近するのは、中世末からルネッサンス期にかけて解剖学と生理学が進歩し、つづいて十八十九世紀に物理学、化学などの隣接科学が飛躍的に発展してからのことですが、とくに医学研究に実験的手法が積極的に導入されるに至ったことに大きな意義を認めないわけにはいきません。
クロド・ベルナルの『実験医学序説』が出たのは一八六五年のことです。
一八八八年、数年にわたるドイツ留学から帰った若き森鴎外はしきりに「厳密な医学」ということを口にしましたが、経験主義、古典崇拝主義の東洋医学に比べ、当時西欧に開花した実験医学の華やかな成果が若い東邦の軍医を圧倒したのでしょう。
この時期以後の医者は「科学者としての医師」となり、知的権威が道徳的権威やカリスマ的権威に決定的に優越するに至るのです。
そして医療は、秘伝的なあるいは素朴体験的な技能から、学校教育によって伝達可能な近代技術に脱皮するのです。
それによって医療の効率は飛躍的に向上しました。
しかし、T・Hさんなどもいっているように、医学は今日なお不完全な情報の体系であることを承認しなくてはなりませんし、医者の修業には、なお多くの徒弟的な訓練の積み重ねを必要とする部分が存在することも事実です。
そして今日でも「一人前の医者になるには、何人か患者を殺さなくてはならない」などという、あまり大きな声ではいえないようなことが医者の間で時にささやかれているようです。
もちろん現代医学はこのような危険な経験主義を一歩一歩排除しつつあるのですが、こういう言葉がとにもかくにもまだ残っているところに、今日の医学の現実をうかがうことができるかも知れません。
それにしても、近年の分子生物学や医療工学の飛躍的な進歩は、徹底した自然科学的医学観と高度に技術化された医療システムの支配をもたらしたのは事実です。
医学は単なる生物学ではないという留保つきの姿勢が崩れ、「医学」という言葉に代わって「生物医学」があるかも知れません。
そして科学としての生物医学の無謬性を確信するあまり、一人一人の患者にかかわる、不確実性に満ちた日常診療についての反省をともすれば忘れがちになっていることを恐れなくてはならないのです。
隣接諸科学の飛躍的な進歩に支えられた現代医学の素晴らしい効率にもかかわらず、医者が一人一人の患者に接触する場面で不安やトラブルが絶えないことについては、いずれ章を改めて論じなくてはなりませんが、それらは知的権威主義の肌合いの冷たさないしうさんくささに由来するところが大きいのではないか、と私は考えるのです。
道徳的権威倫理的に危険な職業志賀直哉の短篇に、床屋で喉に剃刀を突き立てられる話があります。

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